今回の更新は

ちょろっと訳してみたこの記事をのっけたかったから、というのがメイン。
言ってる事が面白そうだなーというのと、訳しやすい文章と感じたんで。

飲酒運転を合法に
ルウェリン・H・ロックウェル
http://www.lewrockwell.com/rockwell/drunkdriving.html
各州に飲酒運転の取り締まりを強化せよ、さもなければ高速道路の資金をカットするという法案が合衆国議会を通過し、クリントンによって署名された。高速道路を使ったいつもの「ゆすり」戦法だ。既に各州は連邦政府の要求を飲み、より厳しい飲酒運転法の作成に取り掛かっている。
連邦政府は0.08%以上の血中アルコール濃度は犯罪であり厳しく罰せなければならないと言うが、これはあまりにも低すぎるという全米レストラン協会NRAの意見は全くもって正しい。飲酒による交通事故の大多数は、この2倍以上の濃度を持つ人らによるもので、しかも再犯である事が多い。もし現状の0.1%が彼らを止められないと言うのなら、その数値を更に下げても無駄である。
しかし、これに関してはもっと根本的な問題がある。具体的に何を犯罪としているのだろうか?運転ミスでも財産の破壊でも殺人でも危険運転でもなく、ただあってはならない物質が血液中にあるというだけだ。この物質が血液中にあったとしても、たとえ運転中であったとしても、一般的に「犯罪」と呼ばれるような行為をせずにいる事は可能だというのに。
我々は、行いではなく血液中の物質によって政府が人を裁く事を許してしまっている。警察とその技術者の気まぐれや曖昧な判断で法を運用させる権限を与えてしまっている。実際、政府のアルコール量測定器を使わない限り、自分が法を犯している事を知る術はない。
もちろん、自分の体重と一定期間の間に摂取したアルコールを元に自分で計算する事は出来るが、そんなものはただの概算にすぎない。自分が犯罪者かどうか知るには、政府に測定してもらうまで待つしかない。法律がこんな事であってはならない。これでは正に暴政ではないか。
真っ先に来る反論はこのような物だろう:「飲酒運転は交通事故の確率を著しく上昇させてしまうので規制しなければならない」それに対する返事もいたってシンプルだ:自由な社会において、政府は「確率」を元に法を運用すべきではない。法は行いそのものに対してのみ、それも人か他人の財産を損害するものに対してのみ運用されるべきである。確率といったものは保険会社等に任せておけばいい。
だからこそ、多くの人々は「人種プロファイリング」というものが間違いであると直感的に感じている。「一部の人種の犯罪率が高いからと、その人種をピンポイントに取り締まっていいはずがない」という考えだ。政府が取り締まるべきなのは犯罪そのものであり、確率や傾向等ではない。ならば運転手に対しても、飲酒したからという理由で自動的に危険分子扱いするというプロファイリングを行うべきではないのだ。
むしろ、運転手プロファイリングは人種プロファイリングよりもたちが悪い。後者は警察が監視を厳しくしているという意味でしかなく、人種そのものを犯罪としている訳ではない。プロパガンダとは対照的に、飲酒運転が犯罪としているのは交通事故の可能性ではなく血液中のアルコール濃度自体だ。飲酒運転者は、何の危害も加えていなくとも辱められ、暴力の餌食となってしまう。
取り締まりそのものも問題になってくる。バーやレストランを出る多くの人々は飲酒状態に該当するだろうが、ふらつき運転や危険運転等で車を止めない限り、彼らが飲酒運転をしていると警察が知る術はない。ここでこのような疑問が浮上する:何故飲酒に関係なく、ふらつきや危険運転そのものを取り締まらないのか?まったくである。
多少の飲酒を犯罪行為とする点について更に言うと、政府がこういった自由の侵害でしかない関所を設け、何もしていない人間の血液を調べているこの行いは、破廉恥極まりない自由権侵害であり、政府は我々に対して個人的な生体情報の管理に至るまで絶対的支配権を有するべきだという事になる。しかし、我々は犯罪行為ではなく血液中の物質によって政府に裁かれてもよいという合意に達してしまった為、こういった考えを認めてしまっている。
運転者の能力を低下される要素は様々である。ウェイトトレーニングの後で筋肉の反応速度が低下していたり、眠たかったり、喧嘩をして機嫌が悪かったりするかもしれない。では政府は怒り試験や眠気試験、肉体疲労試験を設けるべきなのか?それこそが正に次の段階であり、政府がその問題を追求し出してもおかしくはない。
今、運転中の携帯電話の使用を禁止する動きがある。このような馬鹿げた話も、政府は我々が行う「であろう」行為を元に裁きを下すべきだという考えに基づいている。
むしろ、世の中には少量の飲酒の後であれば、より安全に運転する者もいる。飲酒後で反応が鈍っているからゆっくり新調に運転しなければならないと理解しているからだ。誰しも酔っ払ったにも関わらず高い運転技術を見せるような知り合いはいるはずだ。彼らはこういった法の取り締まりから開放されるべきであり、実際に危害を加えた時に限り罰せられるべきだ。
この流れに今すぐ終止符を打たねばならない。飲酒運転は合法とすべきだ。あと、「私の母は飲酒運転の車に轢かれて死にました、あなたの軽率な記事を読んで非常に不愉快です」といったメールを送らないでほしい。人を殺した者は過失致死罪もしくは殺人罪で、法に則った裁きを受けるべきだが、殺人者を殺人ではなく生態的な状態(例えば赤毛であった等)で裁く事は非常に逆行的である。
銀行強盗は仮面を被るものだが、仮面自体には彼らの犯罪と何の関連性もない。同じように、飲酒運転者も事故を起こすがシラフの運転手も事故を起こすし、事故を起こさない飲酒運転者もいる。法律は血液に何が入っているか等という科学的なものではなく、実際の人間や財産の損害に重点を置くべきだ。
クリントンの飲酒運転法案について最後にもう一つ。これは州権を損害する法案である。憲法には連邦政府に血中アルコール濃度を規制する法案を作る事を認める令状など書いていないし、そもそも憲法修正第10条に違反しているはずだ。飲酒運転に関してはまず各州に判断を任せ、それから各州が飲酒運転者を法の手から自由にするべきである。

最近何やってるの?

仕事して家帰ってゲームしてシコって寝る→エンドレス
と、アラサーなサラリーマンの平凡な日常をおくっております。
GW中はバイクで四国一周したりと、ツーリングもぼちぼちやってます。
SRCは、書きたいネタはあれども本体の開発が実質凍結してる以上、書く気が全くおこらないのが現状。

残念翻訳

日本のデートシーンにも通じるところがあるなと思ったので訳してみた。
読みにくいかもしんないけど許してくだしあ><

http://women.timesonline.co.uk/tol/life_and_style/women/relationships/article7072696.ece
この間、ダブリンのおしゃれなバーで知り合いのフランス人姉妹と遭遇した。何を注文するのか訪ねると、コスモポリタンを2杯(18ポンド)という返事。暫くすると、姉妹の一人のアイシャが「もう一杯いただくわ」と言うので、僕も「いいね、じゃ自分はカールズバーグをお願い」と便乗した。
その瞬間、凍りつくような沈黙。今度は僕が奢る番じゃないだろうと、緩やかだが堅固に伝えると、もし僕が紳士なら女性から奢ってもらうなんて絶対にできないはずだ、と不機嫌そうにアイシャが説教した。「あなたって紳士的じゃないわね」と言われ、僕も「君もレディ的じゃないね」と返してやった。
残念ながら、男性にお酒を奢るなんて言語道断だと信じているのはフランスの女性だけではない。ここイギリス諸島でも、レディ達はバーで平等に接してくれはしない。我々男性にとって、女性にお酒を奢る事はあまりにも条件反射的すぎて、少なくとも最初の一杯だけならそれほど気に留めたりはしないが、そのまま二杯目、三杯目と続いてしまう事が問題だ。初対面の男性からずっと奢られっぱなしでも上機嫌という女性は少なくはなく、女性と交互に奢り合う事を期待する男性を私は見た事がない。しかし、哀しいかな男性は女性にバーへとたまには足を運んでもらいたいものだ。
女性が自分たちは奢るべきではないと信じる理由は二つある。一つは、男性が既に女性との性関係において主導権を握り、リードする事が期待されているのだから、その上で金銭的な責任も背負うべきだという考え。男性は女性と交流できる時間のためにお金を出さなければいけないという、おかしな求愛概念である。
もう一つの言い訳は、古い時代から続く羞恥心と現代に登場した権利の融合である。何とも不公平な権利だと言わざるを得ない。男性は女性を守るナイトであるべきという考えのように見えるが、その実態は「キツく接してビシッとさせる」という、昔から伝わる皮肉じみた風習が変質したものだ。
デンマークのような先進国家では、女性たちはジェンダーフリーの利権を楽しんでいるだけではなく、そこから来る道義的な義務もしっかりと果たしている。デンマークの女性はよく自分から進んで最初の一杯を奢り、受け止められ方もチャーミングで気前がいいと思われる以外の事はない。素敵じゃないか、レディ達。

GK乙


というわけでGKデビューしてみました。
MAG面白いよMAG。
今使ってるHDDレコーダーが死にかけてるので、来月出るtorne目当てというのが本音。
ブルーレイレコーダーを買ったとしても、PS3+トルネと値段そんなに変わらないという。というかもっと高い。