最後の時

実家に到着した。
居間の床には新聞紙がしかれていた。犬がついに下半身のコントロールがほぼ完全に出来なくなってしまっていた。
ソファーの上で寝ていたが、じきに目が覚めた。頭をなでてやると、まるで俺が来てくれたのを喜んでくれているかのように、なでる手に顔をよりそった。もう尻尾を振る力さえ残っていなかったのに。
新聞紙の床に倒れるように降りて、上半身の足だけで必死に歩く。何とかして楽になりたいという願いで。
朝に点滴を打ってもらったお陰で、頭をなでてやるとすぐに眠りについた。起きてから1〜2時間してから。
そして次に目が覚めたのが、獣医へと向かう時だった。
赤い毛布をタンカ代わりに、もう動けない犬を車に乗せる。この犬……ロージーは車に乗るのが大好きだった。いつも窓を下ろしては頭を出して風を感じていた。そんなロージーにとっての、最後のドライブ。
獣医に到着。いつもなら必死に抵抗するロージーも、今はそんな力はない。台座の上に乗せる時も、何の抵抗も見せなかった。
獣医さんが、ロージーの前足に針を通す。麻酔を流し込む準備のために。一旦針を刺すと、麻酔の準備を始める。足に針が刺された時、ちょっとだけワンと鳴いたような気がした。まだ生きている……消えかけている命だけど、まだ生きている。
麻酔の準備が出来た。手術で使うものの通常の三倍(ここで真っ先にシャアを連想してしまった)を注射し、そのまま眠りの中で安楽死させる。ロージーの頭を、獣医ではなく家族に向ける。ロージーの頭をずっとなで続ける俺と母。父も見守っている。
注射器をゆっくりと押し、麻酔が流れていく。一切の苦痛を与えないために、ゆっくりとゆっくりと。ロージーの目がすぐに虚ろになり、深い眠りに落ちる。注射器の中身が半分くらい無くなった辺りで、父が口にした。
「見ろ。もう息をしていない」
ロージーの腹を見た。確かに動いていない。ロージーの体長が悪化し出したのは2003年の秋頃だった。筋肉痛になり、ロージーは自分が死ぬんだと勘違いして、庭の隅っこに死に場所を見つけて、そこで寝るようになっていた。何とか回復はしたけれど、それからずっと、ロージーはちゃんと息をしているのか、ちゃんと生きてるのかと確かめるように彼女の呼吸を眺めたものだ。
その呼吸がついに止まった。いずれ来るであろう時が訪れた。まだ心臓は動いていて、それが止まるのにもう少し時間がかかると獣医は言う。まだ生きている……息はしていないけどまだ生きている。そう俺は思った……だけど、息を止めたロージーの体を見ていると、それがもう死体当然なんだと思い始め……ゆっくりと、何かが込み上がってきて……
……泣かないと思ってた。祖父が死んだ時は、かすかに泣いた程度だったのに、嘘みたいに涙が流れた。目の前で死んでいく光景を眺める事は、やはり辛かった。獣医さんはロージーの心臓の音を確かめる。二本目の注射を終えて、再び心臓を確かめると、立ち上がって、
 
「お亡くなりになりました」
 
手を合わせて、お辞儀をしてそう言った。
 
 
泣いた。ただひたすら泣いた。心臓も止まり、彼女の死が本物になって、よりいっそう悲しみが増した。
父も母も泣いてはいなかったが、心が痛んでいるという事は伝わってくる。
獣医さんは、死亡後の処理のために一度死体を奥へと持っていった。その時、ロージーの亡き骸を見て、「……ロージー……」と、辛そうな目で獣医さんは口にした。
ロビーで待っている間に、何とか涙は収まった。ロージーはいい人生を送ったと、両親と語る中、病室から看護婦の泣き声が聞こえてきた。辛いのは俺達だけじゃなかった。10年近くもお世話になってきたのだから、彼女らもロージーに愛着があった。
ロージーを箱詰めにして、準備ができたと家族を呼んだ。可愛い愛犬を箱詰めにするなんて、と父も少し怒っていたが、箱の中を見ると、
ロージーは、奇麗に横たわっていた。
箱の底には、白い毛布がしかれていた。
紫色の花が添えられていた。
小さなペットフードの包みが置かれていた。
……また何かが込み上がってくるのを感じたけど、こんな美しい姿を前にして、涙を流したくはないと、必死にこらえた。最後まで面倒を見てくれて、ありがとう、獣医さん。
動物病院の皆さんに見送られ、家へと帰る。ロージーの亡き骸は車の中に残しておく。
みんな、無言のまま食卓に集まり、じっと座る。そこで親父が棚からワインを取り出し、飲み始める。
「俺も飲んでいいかな」
おそらく、生まれて初めてだったと思う。悲しさのあまり、お酒を飲みたいと思ったのは。それだけじゃない。ロージーの人生(人じゃないけど)を祝福して、みんなで乾杯した。
そして夜は更けて、朝の5時にロージーを埋葬するために家を出る。山にペットの死体を埋めるのは違法だと聞いたけど、そんなの知った事じゃない。自分のペットは自分で埋葬したい。そう思った。
箱からあの赤い毛布に移し、花やペットフードも一緒に入れ、森の奥へと進む。掘りやすい場所を探し、そこで穴を掘って、埋葬した。穴を埋め、動物が掘り起こさないよう、近くで捨てられていた金属の板を上に乗せる。葉っぱや黒い土も上にかぶせる。誰にも邪魔されずに、安らかに眠れるように。
もう一度、家に帰る。ほんの少し前なら、尻尾を振りながら飛び掛ってきた一匹のビーグルがいたのに、その時はもう戻る事はない。同じ時を生きる事はできないのだから。
……そのまま、俺は実家を後にして、大阪へと帰った。こういう別れは、いずれ親ともしなくちゃいけない。親しい友人ともしなけばいけない。そして、いずれは俺もああやって皆と別れを告げなくてはいけない……と。
その思いを胸に、俺は朝の電車に揺らされていた……。
 
 
 
 
 
ロージーは、老衰と癌という苦しみからやっと解放された。
死ぬ間際の彼女の表情は、とても……とても安らいでいた。
だから……最後に、この場で言いたい。
「ロージー、今まで本当にありがとう。そして……お休み」